斎藤茂吉は山の歌人でもある。茂吉の短歌作品が人間味あふれた大きな一つの宇宙をなしていることは言うまでもないが、山に関連する歌の数は、非常に多い。なにしろ茂吉は行く先々で山を詠んでいる。山があってもなくても山を歌にするのである。『あらたま』におさめられた「長崎へ」では、特急電車の中から富士山を詠み伊吹山を詠み、『つゆじも』の「洋行漫吟」では、香港、マラッカ、セイロン、紅海、アフリカ、そして地中海と洋上から各地の山を眺めつつ詠む。『遠遊』、『遍歴』ではウィーンの森、ミュンヘンのある南ドイツの山々、ユングフラウの高峰、南イタリアまで足を延ばしベスビオ山も歌に収め、「帰航漫吟」ではヨーロッパアルプスの思い出と日本の山々の懐かしさに触れつつも、「洋行漫吟」の時と同じように山々の歌を詠む。さらに『連山』では満州から内モンゴルまで進み、〈平原(へいげん)にある雪山(ゆきやま)はおのづから白き石等(など)を見るにし似たり〉、〈紅き雲あやしきまでに厚(あつ)らにて棚びくときに山ひとつ見ず〉、〈地平(ちへい)のうへに淡然(たんねん)に置かれたるものの如くに孤山(こざん)がひとつ〉などと、地平線上にほとんど山が無いことをわざわざ詠んでいる。大洋の上から山を求め、地の果てまで出かけて行って山が無いことを歌にするのが、山の歌人斎藤茂吉である。

歌碑と筆者
蔵王山頂斎藤茂吉歌碑と筆者

とはいえ、茂吉の山の歌の中心は蔵王である。蔵王山に加え、その北西に位置する月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山、再び最上川を挟んで北に位置する鳥海山は、茂吉にとってはとりわけ聖なる山々で、それらの山々を詠んだ歌は多い。〈スキイもちて雪ふる山に行く友はしきりに吾を誘(さそ)へど行かず 『たかはら』〉という歌に垣間見られるように、蔵王を始めとする山形の名峰は、茂吉には崇拝の対象でもあると同時に、親しみのある心の拠り所でもあった。

火の山を繞(めぐ)る秋雲(あきぐも)の八百雲(やほぐも)をゆらに吹きまく天つ風かも 改選『赤光』

みちのくの蔵王(ざわう)の山に消(け)のこれる雪を食ひたり沁みとほるまで 『寒雲』

すでにして蔵王(ざわう)の山の真白(ましろ)きを心だらひにふりさけむとす 『小園』

みちのくの蔵王(ざわう)の山にしろがねの雪降りつみてひびくそのおと 『つきかげ』

有り難いことに、昨年の三月、茂吉の蔵王の懐に入り、その歌心に触れることが出来た。「新アララギ」代表の雁部貞夫先生との「茂吉・いのちの山河」をテーマとする対談を控え、茂吉の歌の足跡を辿っておこうと蔵王を訪れ、歌碑巡りを通じて茂吉の歌を体感、堪能した。蔵王山や蔵王温泉にある茂吉の歌碑を巡ることによって、茂吉の蔵王を、より身近に感じるようになったのだ。その時の体験を記しておきたい。

歌碑行 蔵王山頂(熊野岳) 昭和14年7月8日


 庄内空港で車を借り、最上川に沿って蔵王に向かった。最上川両岸の山々の山容は比較的優しい。本州中央部の、例えば天竜川の山々の切り立つ険しさはなく、むしろ欧州大陸の大河のような壮大さがある。滞欧時の茂吉は、ドナウ川に最上川を重ねて見ていたのだろうと感じた。蔵王温泉に宿をとり、翌朝さっそく歌碑巡りに出かけた。凍結したところもあるアスファルトの道を注意しながら下り、雪の明るさと硫黄の匂いをあたたかく感じながら進むと

蔵王より南のかたの谿谷(けいこく)に初夏(しよか)のあさけの靄たなびきぬ 『小園』

の歌碑があった。雪は降っていなかったが空は薄鼠色の雲に覆われており、モノトーンに近い風景の中、くろぐろと歌碑が立ち、その上には帽子のように雪が積もっていた。そこで初夏のみずみずしい蔵王を思い浮かべてみるのは、この歌のイメージが際立ってかえって新鮮だ。すぐ近くに歌碑がもう一つあった。

ひむがしの蔵王(ざわう)の山(やま)は見(み)つれどもきのふもけふも雲さだめなき 『石泉』

蔵王は雲の中。いつかは茂吉の見た光景を自分の目で確かめたいと思う。蔵王を再び訪れるべき理由ができた。

蔵王(ざわう)をのぼりてゆけばみんなみの吾妻(あづま)の山に雲のゐる見ゆ 改選『赤光』

蔵王みはらし公園にも歌碑がある。といっても一面の新雪だ。歌碑のところまで行こうかどうか迷うまでもなく、一歩ずつ雪に足を差し込み、また引き抜いて歌碑に近づいていった。もはや雪山ハイキング気分である。雪の積もることのほとんどない土地に住む山好きの者の発想だろうか。これほど安全に、手軽に、雪山を楽しむようなよろこびはないであろう。私は頂上碑ならぬ茂吉の歌碑に向かって大きな足跡をつけて進む。

蔵王みはらし公園歌碑「蔵王をのぼりてゆけば」
蔵王みはらし公園内歌碑「蔵王をのぼりてゆけば」

しづかなる春山峡(はるやまかひ)のかなしさよ杉原(すぎはら)ゆけば杉の香ぞする 『霜』

公園の横の、半ば氷った雪の参道を上り、酢川温泉神社に着く。歌碑は半ば雪に埋もれている。歌碑の方へ二三歩近づいただけで、腰までの雪になった。ラッセルしながら進む。ラッセルとは登山用語で、雪をかき分け押し分け、雪を固めつつ道を作って進むことである。冬山も愛した山男時代が懐かしい。茂吉の歌碑まであと五メートルほどか。歌碑にタッチし、新雪をかきわけて歌の文字を拾う。蔵王の春の杉の香りの歌だ。雪の香りをぞんぶんに吸い込んだ。酢川温泉神社の参道を、グリセードして滑り下り、蔵王スカイケーブルの上の台駅に向かう。

酢川温泉神社歌碑「しづかなる春山峡の」
酢川温泉神社敷地内歌碑「しづかなる春山峡の」

ひさかたの雪はれしかば入日(いりひ)さし蔵王(ざわう)の山は赤々(あかあか)と見ゆ 『白桃』

少し上ったところに二つの歌碑が並んでいた。

万国(ばんこく)の人来り見よ雲はるる蔵王(ざわう)の山(やま)のその全(また)けきを 

とどろける火はをさまりてみちのくの蔵王(ざわう)の山はさやに聳ゆる 『つきかげ』

私は「万国の」の一首を好む。この歌は昭和二十五年に「新日本観光地百選山岳の部」において、蔵王が第一位に輝いたことを喜び、茂吉が当時住んでいた東京で詠んだものだ。茂吉の歌の魅力の一つは、日本語の母音と子音が絶妙に響きあう音楽性にあるが、この一首は、私には、ベートーヴェン第九の合唱部分の短歌版だと思えるのだ。
 宿に戻ると宿の前にも歌碑があってうれしい。

たましひを育(はぐく)みますと聳えたつ蔵王(ざわう)のやまの朝雪(あさゆき)げむり 『小園』

宿を後にしてスキー場に向かう。

雪消えしのちに蔵王の太陽(たいやう)がはぐくみたりし駒草(こまぐさ)のはな 『寒雲』

時折ガスで視界を失う天候の中、ロープウェイの地蔵山頂駅の歌碑を確かめ、短時間でも晴れてくれたらなあと願いつつ、スキーを続けていると、ついにその時が訪れた。風向きが変わり、いつまで続くかわからないが一、二時間ほどは視界が確保できそうだった。

蔵王がホワイトアウトしやすい山であることを意識しつつ、スキーをかついで熊野岳山頂に向かう。

山形側を望む 左蔵王山(熊野)神社 中央奥歌碑 右「日本観光地百選一位」記念碑
山形側を望む 左蔵王山(熊野)神社 中央奥斎藤茂吉歌碑 右「日本観光地百選一位」記念碑

陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王(ざわう)の山(やま)の雲の中に立つ 『白桃』

雪に完全に覆われた蔵王山神社の近くに、氷の塊と化した歌碑らしきものを発見。歌の文字は一つも見えなかったが、一部氷のはがれているところがあり、「昭和九年八月」の文字がかろうじて見え、建立碑文を確認できた。スノーモンスターと化した歌碑に寄りかかり、歌を身体で感じたのだった。

歌碑碑陰
歌碑碑陰「昭和九年八月」

蔵王下山後は、月山を眺めつつ北上し、鳥海山を振り返り眺めつつ羽黒山に登り、東京に戻った。

■本多 稜(ほんだ りょう)歌人・「短歌人」

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