今年は、上山市とドイツのドナウエッシンゲン市友好都市盟約締結三十周年にあたり、六月二十五日から七月三日まで、上山市民訪独団(団長・山本幸靖市長)がドナウエッシンゲン市などを訪れた。良い機会であったので筆者も訪独団の一員として参加した。皆さんもご存じのとおり、盟約締結のきっかけとなったのは、斎藤茂吉がドイツに留学していたときに、ドナウ川の源流を求めてドナウエッシンゲン市を訪れたことにある。
 茂吉は、三十九歳の大正十年(一九二一年)十月に横浜を日本郵船の熱田丸で出航して、シンガポール・スエズ経由で約一月半をかけて十二月にマルセイユに到着し、パリ経由にてベルリンに到着した。約三週間後に、ウイーンに行き、ウイーン大学精神医学研究所で病理組織学的研究を行った。約一年半後の大正十二年(一九二三年)七月にミュンヘン大学のドイツ精神医学研究所に転学し、脳の病理標本作製や動物実験などの研究生活を送っていたが、翌年四月十八日から十九日にミュンヘンからドナウ川の源流を求めてドナウエッシンゲン市を訪問している。ドナウ川は欧州を代表する大河で、その流れはドイツ南西部の黒い森といわれるシュヴァルツヴァルト地方を源として、オーストリア、東欧など十か国以上を横断して黒海に注ぐ、全長二、八五七kmに及ぶ。ドナウエッシンゲン市にあるブレク川とブリガッハ川が合流するところがドナウ川の源流であり、そこから下流がドナウ川と称される。

ドナウの泉
ドナウの泉

ドナウエッシンゲン市内にはドナウの泉と称される源泉があり、毎年六月下旬にはドナウ源泉祭りが開催されている。平成十二年(二〇〇〇年)十月六日には、上山市とドナウエッシンゲン市との友好都市盟約締結五周年を記念して、ドナウの泉の側に斎藤茂吉の歌碑が建立された。茂吉の歌碑は日本中に数多くあるが国外では初めての歌碑である。歌は「大き河ドナウの遠きみなもとを尋めつつぞ来て谷のゆふぐれ」で、茂吉がドナウ川の源流を求めてドナウエッシンゲン市に来て詠んだ一首であり、歌集『遍歴』に収載されている作品である。

斎藤茂吉の道案内板
斎藤茂吉の道案内板

その歌碑は、茂吉がドナウエッシンゲン市を訪れたときに投宿したホテル「シュッツェン」(現在はレストラン)の向いのブリガッハ川沿いに移設されている。その歌碑から、ブリガッハ川に沿って、茂吉がドナウ川源流まで歩いたであろう約一・五kmの自然豊かな森林の小道が「斎藤茂吉の道」と命名されている。

訪独団は、山本幸靖市長を団長として、川崎朋巳市議会議長、市議会議員、羽島健夫ドナウエッシンゲン日独友好協会会長ほか協会会員、市民など総勢十八人であった。今回の訪独団の旅程を以下に簡単に紹介する。
 六月二十五日夜羽田空港を発ち、翌二十六日早朝にミュンヘン空港に到着後すぐに専用バスで、茂吉がミュンヘンから列車でドナウエッシンゲン市に向かう途中に訪れたウルムに向かい、約二時間半後に、世界一高い塔を有するウルムの大聖堂が見えて間もなくウルム市内に停車した。市内にはドナウ川が流れ、茂吉が「ドナウ源流行」に書いているドナウ川沿いの城壁を利用した遊歩道などを散策し、茂吉が昼食を食べた「Ulmer Spatz(ウルムの雀)」というレストランで昼食を食べた。午後一時にウルムを出発して途中渋滞があったが五時過ぎには宿のホテル(Zum Hirschen)に到着した。十八時過ぎから、ドナウエッシンゲン市のパウリ大市長主催の歓迎夕食会があった。翌二十七日朝市内のマーケットで週一回開催される朝市を見学。朝市では、思いがけず一般市民で茂吉に詳しい方(現地の眼医者さん)が、筆者を茂吉の歌碑があるところまでわざわざ案内してくださり、その後、市役所に行ってパウリ大市長を表敬訪問し、簡単なレセプションがあり、来訪者名簿にそれぞれ署名をしたりして歓談した。その後、市内散策の後、茂吉が泊まった場所にあるシュッツエンという店(元ホテル)で昼食をとり、一旦宿に戻って休憩後、正装を着て、市の手配による緑色の市バス(貸切)でドナウ源泉まで行き、源泉を見た後、フュルステンベルク侯爵のお城での三十周年記念式典と夕食会に臨んだ。

茂吉歌碑
ドナウエッシンゲン市内に建つ斎藤茂吉歌碑

翌日の二十八日には、ドナウ源流までバスで移動し、ブリガッハ川とブレク川が合流してドナウ川となる地点に行き、その後「斎藤茂吉の道」を茂吉が歩いたのとは逆行して茂吉の歌碑がある地点まで散策した。ちなみに、ブリガッハ川とブレク川が合流してドナウ川となる現在の地点は、洪水対策やビオトープとして、茂吉が訪れたときの地点から二百五十m上流に移されているとのこと。十一時半から、ドナウ源泉のところで年一回の源泉祭があり、パウリ大市長の開会と三十周年記念訪独団歓迎挨拶があった。夜は郊外のレストランで夕食会が催され、ミュンヘンからわざわざ別所健一総領事も出席された。
 翌日の二十九日は、山本市長ら四人の方は他の視察のため別行動となり、残りの訪独団一行は、フュルステンベルクビール工場を見学した後、フュルステンベルクレストランでパウリ大市長も出席のもと昼食会が催され、筆者も斎藤茂吉記念館館長としてスピーチの機会を得てスピーチを行った。昼食会によりドナウエッシンゲンでの公式行事は終了し、訪独団一行は、ホーエンツォレルン城を見学した後シュツットガルトへ移動して一泊。翌三十日はシュツットガルト市内見学の後、バートビンプフェン市経由ハイデルベルク市に行き一泊。七月一日はリューデスハイムへ行き、サンクト・ゴアルスハウゼンまでのライン川クルーズの後、ヴィスバーデンに行き一泊。翌二日はフランクフルトからの便で三日に羽田空港に帰着した。
 今回初めてドナウエッシンゲン市を訪れ、百一年前に斎藤茂吉が訪れたこの地に足を踏み入れて、茂吉が辿ったドナウ川源流への道を歩くことができ感激した。斎藤茂吉が終生、ふるさとの山形を愛し、その中心を流れる最上川の自然・四季を愛したことは、茂吉が詠んだ多くの歌からも知ることができるが、特に、茂吉が十四歳の若さで上山を離れ上京したこと、そして三十九歳で遠い欧州に留学した茂吉がどのような思いでオーストリアやドイツで生活し、遠い日本、ふるさとでの生活を思い起こしていたかを考えると、茂吉がドナウ源流を求めた訳も理解できる。

ベルリンにて 妻輝子・前田茂三郎と

茂吉がオーストリアで研究生活を送っていたときに見たドナウ川の情景がふるさとの最上川等の情景と重なり深い郷愁を覚えたことであろう。そしていつかそのドナウ川の上流、更には源流を訪ねて見たいと考えていたのであろう。そのような茂吉の境涯・思いとドナウ源流行との関係を考えるとき、この度、筆者も茂吉のドナウ川源流行を追い求める旅として訪独団に参加できたことは貴重な体験であった。

斎藤茂吉記念館 館長 波 克彦(なみ かつひこ)


参考 斎藤茂吉歌集『遍歴』「ドウナウ源流行」(抄)

中空(なかぞら)の塔(たふ)にのぼればドウナウは白くきらひて西よりながる  Ulm

ドウナウの流(ながれ)をりをり見え来り川上(かはかみ)にゆくを感じつつ居り

Sigmaringen(シグマリンゲン)を過ぎてよりまどかなる月の光はドナウを照らす

Brigach(ブリガハ)とBrege(ブレーゲ)と平野(へいや)の河ふたつここに合(あ)ふこそ安(やす)らなりけれ

あひ合ひてドウナウとなるところ見つ水面(みのも)は白し日のかがやきに

ただ白くかがやき居れど二つ川相(あひ)合(あ)ふ渦(うづ)を見すぐしかねつ

ゆたかなる水草(みづくさ)なびきこの川の鯉のむらがり怖(おそれ)さへなし

直(ただ)岸(ぎし)に来つつドウナウに手をひたす白き反(てり)射(かへし)にわが眼まぼしく

ドウナウエシンゲンに来てドウナウの水泡(みなわ)かたまり流るるも見つ

ドウナウの岸の葦(あし)むらまだ去らぬ雁(かり)のたむろも平安(やすらぎ)にして

黒林(こくりん)のなかに入りゆくドウナウはふかぶかとして波さへたたず

たづね来しドナウの河は山裾(やますそ)にみづがね色(いろ)に細りけるかも

なほほそきドナウの川のみなもとは暗黒(※あんこく)の森(もり)にかくろひにけり ※Schwarzwald

この川のみなもととなり山峡(やまかひ)のほそき激(たぎ)ちとならむとすらむ

大き河ドナウの遠きみなもとを尋(と)めつつぞ来て谷のゆふぐれ

Brigachquelle(ブリガツハクエルレ)尋(と)めむとおもひしがかすかなるこの縁(えにし)も棄てつ


※初版『遍歴』に「ドウナウ源流行」の歌があり、特に冒頭16首は出発からドナウエッシンゲン市を後にする内容となっている。
※初版『遍歴』「ドウナウ源流行」は旧版全集から「ドナウ源流行」と誤記されている

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