「御進講草稿」は昭和二十二年八月十六日、上山温泉の村尾旅館で行われた進講に際して、斎藤茂吉が当初模索・検討した言上の内容が記されたもので、斎藤茂吉全集には未収載の原稿です。
 八月十三日の茂吉の日記には「言上ノ草稿作リ15分ノ草稿ナルガ旨クユカズ、旨ク言ヘナカツタ」、翌十四日の日記には「言上ノ内容ヲ変ヘ、最上川一首ニ限ルコトニシタ」と記されています。実際の内容は同席した茂吉の門人結城哀草果が『御巡幸録 昭和二十二年 山形県』(昭和二十三年十月 山形県発行)に掲載した「歌ものがたり」と題した記事に詳しくまとめており、それによれば十四日の茂吉の日記に記されてある通り、茂吉は最上川の歌についてのみ言上したようです。
 その言上では、

最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらず此月ばかり 読人不知 古今和歌集巻第二十東歌


この歌が恋歌で、女性が男性に対して月の障りがあり応じかねるという意味であることを解説しました。次に

広き野をながれゆけども最上川うみにいるまで濁らざりけり 昭和天皇御製


この御製の下の句は山形の県民性を詠われたと拝察し感動したことを述べ、実際の最上川は洪水で濁ることもあると付言しました。最後に、

最上川ながれさやけみ時のまもとどこほることなかりけるかも 斎藤茂吉

の自作について、写生の歌でありつつ下の句は山形県民ひいては全国民が日本再建にとどこほることなく努力するという寓意があるとも解説しています。

進講は全体で三十分程と予定され、茂吉の持ち時間は十五分程でした。明治天皇と上山・山形とのかかわりという点で、山形県県令三島通庸の新道開削と明治十四年の東北巡行についても言上するつもりだったようですが、話題が散漫になることなどから最上川の歌三首に内容を絞ったようです。三十分の進講後、懇談に花が咲いたため全体で一時間に及ぶ拝謁となりました。
 草稿の後半は、文字の墨が薄く運筆にもめりはりがありません。昭和天皇への拝謁は茂吉にとって心理的負担が大きく緊張していたことは様々な記録として残っていますが、この草稿はそれを如実に示す資料といえます。
 この資料は、現在開催中の特別展「斎藤茂吉とふるさと ―みちのく界隈―」にて令和八年三月三十一日まで展示しております。是非ご覧ください。

■業務係主事兼学芸員 五十嵐善隆


参考 斎藤茂吉日記 昭和二十二年八月

八月十三日 水曜 晴レ 87° 暑気強イ

○三百円百子、富太郎ニ短冊オクル、臥床 ○午後三時ニ言上ノ草稿作リ15分ノ草稿ナルガ旨クユカズ、旨ク言ヘナカツタ ○鮎一尾、征露丸一ツ、ナルコポン丸二粒、○寝苦シカツタ。

八月十四日 木曜 ハレ 室温85°

○酒田ノ青年二人訪ネテ来タ。一時間バカリ費シタ ○言上ノ内容ヲ変ヘ、最上川一首ニ限ルコトニシタ。今宿ノ薬師堂ニ行キ15分間ノ練習ヲシタ 老媼(74歳)来リイロイロ話シタ、御詠歌、孫 ○奉迎五首ヲ作リ奉ツタ、○板垣氏ノ家ニ来リ午食(ソウメン)ヰゲタサンヨリ新鮎五尾イタダク 腹張ル ○佐々木令息ヨリ写真トツテモラフ ○夜直チニ寝タガ電灯消エタリシテ寝苦シカツタ

翻刻 斎藤茂吉原稿「御進講草稿」

翻刻 斎藤茂吉原稿「御進講草稿」

原本 斎藤茂吉原稿「御進講草稿」

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