斎藤茂吉記念館 ナビをスキップ
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●斎藤茂吉略年譜

幼少期

 斎藤茂吉は、1882年(明15)5月14日(戸籍では7月27日)、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村=現上山(かみのやま)市金瓶=の農家守谷伝右衛門の三男として生まれました。金瓶は蔵王連峰を東に仰ぐ仏教信仰の厚い養蚕の村で、その自然に親しみながら素朴な農家の子として育った茂吉は、菩提寺であった宝泉寺の住職や周囲の人々の影響で、宗教心や書画などへの関心を芽生えさせました。
 1896年(明29)14歳の時、茂吉の資質を目にとめていた住職の仲介で、東京浅草で淺草医院を開業していた同郷出身の斎藤紀一のもとに寄寓し、開成尋常中学校(現在の開成中学校・高等学校)に編入学します。医学を学び、斎藤家の養子となって後を継ぐためでした。


青年期

 上京した茂吉は開成中学から旧制第一高校(東京大学の前身)へと進学します。第三学部(医学部)の学生となった茂吉でしたが、一方では幸田露伴の文学に親しみ、1904年(明37)12月には、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集「竹の里歌」を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになります。1906年(明39)、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めます。歌誌「馬酔木」が「アララギ」へと変わってからはその中心的な歌人となりました。
 1913年(大2)、第一歌集『赤光』(しゃっこう)を発表し、大きな反響をよびました。
 この間、1905年(明38)には斎藤家の婿養子として入籍(23歳)、1910年(明43)卒業、1914年(大3)に斎藤紀一の二女輝子と結婚します。茂吉31歳のときでした。


壮年期

Photo 1910年(明43・28歳)に東京帝国大学医科を卒業した茂吉は、同大学助手として付属巣鴨病院に勤め精神医学を専攻、1917年(大正6・35歳)11月、長崎医学専門学校の教授に任じられ長崎に赴任します。そこで1921年(大10・39歳)まで精神医学と法医学を講じた後、同年10月渡欧留学。オーストリアのウィーン大学、その後ドイツのミュンヘンの国立精神病学研究所で研究を重ね、1924年(大13・43歳)に東京帝国大学医科大学より医学博士の学位を受けます。同年12月、帰国の途にあった船上の茂吉に、養父が創設した青山脳病院全焼の報が届き、帰国後は病院再建に奔走する日々を迎えることとなります。
 医学と短歌と、二つの道を選んだ茂吉は、この間も歌人として活動し続け、1921年には第2歌集『あらたま』を出版。1926年(大15)には島木赤彦死去にともない「アララギ」の編集発行人になりました。


激動期

 1927年(昭2・45歳)、茂吉は再建した帝国脳病院の院長となります。翌年、養父紀一が死去。そして戦時色が濃くなってゆくなか、平福百穂、中村憲吉など心を通じ合った歌友との死別、妻のスキャンダルなどの心痛事に次々と襲われます。それらを堪えるよすがとするかのように取り組んだのが柿本人麿の研究です。それは、1934年(昭9)の『柿本人麻呂(総論篇)』をはじめ1940年(昭15)の『柿本人麻呂(雑纂篇)』まで全5冊の出版となって結実します。この業績により、帝国学士院賞を受賞しました。
 この間も、歌集『暁紅』(1940年発刊)の作中に反映されることとなる永井ふさ子との出会いや、激しさを増してゆく戦時の色に準じて多くの戦争詠などの作品を残したのでした。


晩年期

Photo

 1945年(昭20)3月の東京大空襲の翌月、茂吉はふるさとの金瓶に疎開、そこで終戦を迎えます。翌年、芭蕉の足跡が残る最上川畔の大石田町へと移り、1947年(昭22)11月に東京に戻るまでの日々を過ごすこととなります。この間、敗戦の失意のなか肋膜炎を病むなどの大病もあったものの、蔵王や最上川の自然に育まれたふるさとの風土と人々の真心につつまれ、歌集『小園』・『白き山』(1949年出版)に結晶する数多くの秀歌を詠み続けたのでした。

 1951年(昭26)文化勲章を受章(69歳)。翌年には「斎藤茂吉全集」全56巻(岩波書店)も発行され、茂吉はようやく晴れがましい日々を取り戻します。しかし長くは続かず、1953年(昭28)2月25日、新宿大京町の自宅で心臓ぜんそくに見舞われて死去しました。70歳9カ月の生涯でした。 (戒名:赤光院仁譽遊阿暁寂清居士)
 分骨埋葬された茂吉の墓は、郷里上山の金瓶宝泉寺(同年5月埋葬)と東京青山の墓地(同6月)にあります。

 全17冊の歌集の刊行(生涯の作歌数は1万8千余首に及ぶ)をはじめ、歌論・評論・随筆などについても優れた数多くの作品を残している茂吉の業績に対しては、文化勲章のほか1937年(昭12)帝国芸術員会員、1940年(昭15)帝国学士院賞(柿本人麿研究により)、1950年(昭25)第1回読売文学賞の各賞が贈られています。


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