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赤き華あかき光を ┃ 一本の道とほりたり ┃ 逆白波のたつまでに茂吉以後の歌人
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2 一本の道とほりたり

 『赤光』刊行後、養父斎藤紀一の次女輝子と結婚、長崎の医学専門学校に赴任、歌集『あらたま』の刊行、渡欧、帰国後の焼失した病院の再建、柿本人麿の研究、『寒雲』以後のあいつぐ歌集の刊行、そして戦火が急速に激しくなるころまでを紹介しています。


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■巣鴨病院から長崎のころ

 大正3年に結婚した茂吉(32歳)は、大正6年に大学と巣鴨病院を離れるまで、慣れ親しんだ同僚らとの日々を送り、医学以上に作歌活動に情熱を傾けます。
 その「一本の道」は、長崎医学専門学校教授時代(大正6年〜10年)には「短歌に於ける写生の説」などの歌論を通して踏み固められていきます。

 

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▲県立長崎病院で診察する茂吉
(中央・大正10年)

■ウイーン、ミュンヘンでの日々

 大正10年(1921)1月、『あらたま』を出版した茂吉(39歳)は10月、海外留学の途に就きます。そして翌年1月からはオーストリア・ウイーン大学神経学研究所マールブルク教授の、12年(1923)7月からはドイツ・ミュンヘン国立精神病学研究所シュピールマイエル教授の指導を受けます。
 ヨーロッパでの研究生活のあいまには、各地を巡りながらその風土と、古代から近代までの西欧芸術に接し、文学のための力も培うこととなります。


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▲ゲーテ像の前の茂吉  ▲パリにて妻輝子と

  大正13年7月にパリで妻輝子と落ち合い、
  ヨーロッパ各地を巡った

■火難、そして再建へ

 大正13年(1924)12月30日、ヨーロッパからの帰国途上にあった船中の茂吉(43歳)は、青山脳病院全焼の電報を受け取ります。ヨーロッパで集めて送っておいた書物も荷造りのまま焼失。明けた大正14年は病院復興のタメに奔走する辛苦の年となります。住民の反対による建設地探し、多大な建設費用の借金……茂吉は日記に「十年くらい老いた気がした」と記しています。
 大正15年(昭和元年/1926)、東京府下松沢村松原(現世田谷区松原)に新青山脳病院開設。翌昭和2年4月、茂吉(45歳)は、紀一のあとを継ぎ、院長となります。


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▲青山脳病院全焼の記事「東京朝日新聞」
(大正13年12月30日)

■孤独なる心にもあるか

 病院再建の苦労のなかも、大正15年5月には、歌誌「アララギ」の編集発行人となるなど、歌壇の第一人者としての活動は旺盛に続けられていました。しかし、昭和3年(1928)に養父紀一が没し、昭和8年には平福百穂、翌9年には中村憲吉という深い交わりを続けていた友人も病没、また妻輝子の「ダンスホール事件」など、心がそがれることが相次ぎました。
 そんな茂吉の心を支えたのが昭和8年から取り組んだ柿本人麿の研究、そして昭和9年秋の「アララギ」会員の永井ふさ子とのめぐりあいでした。


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▲秋田県横手で倒れた平福百穂を見舞った
帰途、上山の山城屋にて
左から結城哀草果、高橋四郎兵衛、
茂吉、岡本信二郎 

■戦火しきり

 幼少の時期に日清戦争の興奮と日露戦争勝利の感激を味わった茂吉は、満州事変以来拡大し続ける戦争の中で届けられる「勇士」の姿に心をゆさぶられます。全5巻におよぶ壮大な人麿の研究により帝国学士院賞が贈られた昭和15年(1940)に出版された『寒雲』以降、戦争詠が目立って多くなります。
 やがて、苦労して再建した青山脳病院も昭和20年5月の空襲で半焼するなど、戦火は茂吉の身辺に迫ります。 


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▲『柿本人麿』(全5冊)


赤き華あかき光を ┃ 一本の道とほりた ┃ 逆白波のたつまでに茂吉以後の歌人


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