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写生道
展示室入口モニュメント「写生道」(斎藤茂吉書)


「写生道」とは、茂吉が短歌を作るうえでの姿勢・信念を示した言葉です。それは「実相に観入して自然自己一元の生を写す」ことである、と自ら定義づけました。

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┃ 赤き華あかき光を ┃ 一本の道とほりたり逆白波のたつまでに茂吉以後の歌人


1 赤き華あかき光を

 金瓶に生まれ育ち、上京、そして作歌を志し、第一歌集『赤光』の刊行までを紹介します。また森鴎外主宰の観潮楼歌会を通じて知己となった歌人や、「アララギ」に結集した歌人たち、さらに芥川龍之介や岩波茂雄など、茂吉が深く交わった人びととその業績もあわせて紹介します。


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■茂吉のおいたち

 明治15年(1882)5月14日、仏教信仰の厚い稲作と養蚕の村、金瓶(かなかめ)で茂吉は生まれました。父は守谷熊次郎、母はいく、三男でした。蔵王山麓の自然に親しむ素朴な農家の子として、茂吉は守谷家の菩提寺である宝泉寺住職(佐原㝫応)の深い感化のもと、読方、作文、習字、図画を得意とする少年として成長しました。


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▲小学習画帳  ▲茂吉が描いた凧絵

■作歌への道

 明治29年(1886)8月、茂吉(14歳)は、茂吉の並外れた資質に着目していた佐原㝫応住職の仲介で、東京で浅草医院を開いていた斎藤紀一(金瓶村出身)の養子となるため父に伴われて上京します。
 東京では、開成中学に編入後、一高、東京帝大医科大学と学びながら文学にめざめ親しみを深めた茂吉は、明治38年(1905)、正岡子規の遺稿集『竹の里歌』を読んで作歌への志を強め、歌人・文人らとの交わりを結んでゆきます。

 

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▲浅草医院での記念撮影(上京直後)
  前列左から2人目茂吉、
その右となりが養父紀一

■『赤光』の時代

 東京帝国大学医科大学医学科を卒業した茂吉(明治43年・28歳)は、その後も大学の助手として大学にとどまり精神病学を専攻、附属病院(東京府巣鴨病院)に勤務します。しかし、医学研究以上に雑誌『アララギ』を舞台として盛んな作歌活動を展開、大正2年(1913)10月、第一歌集『赤光』を出版、その名を一躍高めます(31歳)。


灰のなかに母をひろへり朝日子の
のぼるがなかに母をひろへり
(大正2年5月23日、生母いく死去)


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▲歌集『赤光』

■『楡家の人びと』の舞台

 茂吉の次男は作家の北杜夫さん。その代表作の一つ『楡家(にれけ)の人びと』のモデルは、明治36年に斎藤紀一が創設した帝国脳病院(青山脳病院)です。作品に描かれた楡家の明治・大正・昭和の三代にわたる変遷の物語は、そのまま紀一を中心とした斎藤家の変遷を活写しており、茂吉の素顔をしのばせてくれます。

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▲帝国脳病院模型

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┃ 赤き華あかき光を ┃ 一本の道とほりたり逆白波のたつまでに茂吉以後の歌人


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